昨日7月19日、「詩人の聲第231回 河野聡子 時計一族ふたたび」渋谷三宿スターポエッツギャラリーまでお越しいただいた皆様、どうもありがとうございました。
とにかく昨日は『時計一族』という詩集を、なかほどから最後まで読んでしまいましたが、おかげで私の中でも一区切りついた感があり、ほっとしています。
天童大人氏プロデュースのこのシリーズは昨日の私の回で第231回目でした。
マイクなし、声だけでひとり1時間の朗読勝負というのは、聞く側もたいへんですが読む側としても、作品の内容だけでなく自分自身の声と身体がためされるという、恐ろしくも喜ばしい体験であって、それに私の詩は1行が長かったり詩が長かったりしますし、役者でもなく演出もないこの読みをみんな退屈しないで聞いてくれるのかなとか、いろいろと不安がつきまといました。
ですが4月に続いて2回目をやったあとにあらためて発見するのは、演劇でもなくNHK的ないわゆる「朗読」でもない、声を聞く、声を出す、というタイプの「詩の表現」があるのだ、ということです。
天童氏のこのシリーズに出会うまでは私はたしかに詩人が自作の詩を読むという行為について誤解していたと思いますが、それもきっと無理はなく、いまの日本では、マイクや演出をいっさい取り去ったシンプルな環境である程度の時間しっかりと「声」を聞く機会などほとんどなく、ましてやそのような「声を出す機会」ときたらもっと少ないわけで、詩の朗読も例外ではありません。
ポエトリーリーディングといってもほとんどは一人5分とか10分程度、マイクにむかったり音楽とコラボしたり、という形式で、それはそれでけっして悪くはないのですが、私自身は心の底からおもしろいと思ったことがなかった。
このブログでも何度かとりあげた俳優の阿部一徳さんは、一人芝居という形式で「テキストの読み」と「演技」が絶妙に溶け合うすばらしい時空間を作っておられますが、詩人の朗読という形式にはそういったことは無理なのではないかと思っていました。
しかしどうも、天童大人プロデュースの「詩人の声」を聴くかぎりでは、けっしてそういうわけではないらしい。とはいえ詩人は役者ではない、演ずるというふうには考えていないので、阿部一徳さんのようなことはできない(し、しないほうがいいのかもしれない)。
ところで、声に出して読む表現はそれ自体でかならず「解釈つき」です。
昨日、終わったあとで感想を聞いた方が、「詩集を読んでいたときはわりと平坦に読んでいたけれども、声に出して読まれるとよりわかりやすくなる」というようなことを言ってくださいました。同様のことをその後で他の方も言っておられましたが、たしかに私はあの『時計一族』というややこしくて長大なおはなしの構想者であるので、私の構想に沿った解釈つきの読みをやっているはずであり、そこには文字に書かれた以上の「声」、音韻による情報がたくさん入っていますから、わかりやすくなっているのも当然、というよりむしろ、声にだして読む以上はそうでなければならないのかもしれない。
そしてこれはまた、私でないほかの人が声にだして読んだとき、その人の作品理解により、時計一族という作品の可能性がさらに広げられる、ということも示唆している。
というかむしろこれは考えてみれば当たり前の話なのでしょうが、前述のとおり私には長いこと「自分で声に出す」という発想が欠落していたので、このような可能性に目が閉ざされていたのだと思います。ヤコブソンが示唆するとおり、言葉として表現されたもの、それは文字だけでなく音韻、抑揚も、また文法形式も含むわけですが、それはすべてなんらかの表現上の役割を負っており、無駄なものなどなにもない。私たちはたしかに、声を忘れてはならないのでしょう。
あたらしい発見をくださいました天童大人氏、また、私の声を聴くことによって空間を完成してくださいました皆様に感謝いたします。
(KONO)
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