映画『バベル』を観に行きました。作品そのものの評価は低いのですが、非常に印象に残るシーンがあり、色々と考えさせられるところがありました。ここでは全体的なストーリーには触れませんが、簡単な前提を最初に紹介しておきます。
映画ではモロッコ、アメリカ、メキシコ、日本の4カ国が舞台となり、それぞれの国の人物は直接的に関わらないものの、遠い因果関係でつながっており、それぞれの国での出来事が交互に、時には時間軸をずらすようにあるシーンが往復して描かれたりします。また遠い因果でつながる彼らはそれぞれ、ことばの障害や越えることのできない境界を体験したりします。そしてアラビア語、英語、スペイン語、日本語が飛び交うこの映画では、とうぜん字幕がつくのですが、日本で上映する場合には、テーマがテーマであるだけに日本語にも字幕をつけています。これはニュースにもなったのでご存知の方は多いかもしれませんが、聾唖者のためにも映画のことばはほとんど文字でとらえられるようになっています。
この映画には聾を患う女子高生チエコが登場します。チエコは手話と口読み、そしてノートにすばやくことばを綴ることでコミュニケーションを行います。また彼女の内的聴覚がこの映画では時折挿入され、ほとんど何も聞こえず、じぶんのなかの音(唾をのみこむ音、唇にからむ舌の音、心臓の動悸)だけが辛うじて聞こえる彼女の音的世界が描かれます。しかし映画としては看板シーンにあたるこの無音の情景描写だけは文字の字幕が入りません。
映画館では、私は耳が聞こえるので、彼女の内的聴覚を聞くことができます。つまりほとんど無音の状態がどういう世界であるかが私には伝えられました。「音がいつもにくらべてない」という意味で、私は彼女の内的聴覚の「無音を聞く」ことができました。しかし耳の聞こえない人にこの無音のシーンの意味は伝わらず、二重に聞こえないのだとおもいます。内的聴覚のシーンではこれまであった字幕の文字がない、そして音がないことによってシーンのメッセージを伝達しているからです。
チエコは聾をめぐるコミュニケーションに傷ついており、例えばナンパされたとしても、彼女が聾唖者であることが発覚した途端に(ことばが通じない)外国人扱いされたり、(喃語のようなことばを発する)怪物扱いされたりします。しかし、ある日のこと、彼女は友人の紹介で聾の人々に理解のある若い男たちとダンスを踊りに行くことになります。ダンスホールというのか、クラブというのか、それこそ耳を聾するほどの大音量の音楽が流れています。映画館で観ている場合には、やはり観客もこの大音量を体験し、すさまじい爆音にさらされます。また発作を誘発するようなステージライトの強い光がフラッシュで大量に画面から放射されます。(眩暈を起こすかもしないので、観に行く人は気をつけましょう。私はすこし気分が悪くなりました。)ともかく映画館ならではの大音量を音楽だけでなく、重低音の振動でもうけとることになり、胸のなかで肋骨が震えているのがわかるほどです。
音楽がそのダンスホールに響いていても、勿論チエコはダンスの陶酔要素である大音量を聞くことはできません。一方でまわりの人たちは音楽にあわせて楽しそうに体を動かして踊り狂っています。―ここで、映画は彼女の内的聴覚とダンスホールの大音量を交互に繰りかえします―音が聞こえないのであれば彼女は楽しむことができないというのではありません、一瞬だけ不安な表情がよぎるものの、すぐに彼女は音楽にのることが、まわりとおなじように踊ることができたのです。
なぜチエコは踊ることができたのか。彼女は聞くことのできる人の、まわりの人の体の動き、そのリズムから音楽を推測しているだけでなく、映画館が私に伝えている骨の震えと同じように、ダンスホールの音の震えが彼女に音楽を伝えることでチエコは踊ることができたのだとおもいます。そして映画館で同じく無音を聞くことができない人もこの骨の震えを体感しているのだとおもいます。
音が震えて何かを伝達するためには大音量でなければなりません。その意味で『バベル』は映画館で観なければならない数少ない作品になっているとおもいます。家庭用テレビではこういう音(ことば)の表現は不可能です。一般に映画館で観ることの益は迫力だけだとおもっていましたが、ただの震えがコミュニケーションの手段になることが体験でき、映画館ならではの力として強く感銘を受けました。(南谷)
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