今日は子守歌論です。といっても中途にしておきますが、少し纏められたらと思います。どうして子守歌なのか、これには特に意味はありません。「子守歌」とひとくくりにしていますが、揺籃歌としての子守歌、ララバイについてです。
一般的に子守歌というのは、わが子を寝かせつけるための歌です。
その特徴は、子どもを安眠に導くために、ゆったりとしたメロディーで、それこそ揺籃歌の名に応じて波に揺れるような音楽をくりかえすものです。歌われる内容はといえば、はじめとおわりのある物語ではなく、明確に終止符を打たないようなもの、一度くりかえしても子供が眠らないようであれば、もう一度はじめにもどって、子どもが眠るまで歌い続けられるものが、多いはずです。だからはじめてその曲を聴いて、「これは子守歌である」というような特徴をもっているはずです。
だからこそ子守歌というのは、その反面で、子どもを寝かせなければならない大人側の哀歌であったりもします。そして子供には聞こえないような言語で、その子守歌についてうたう子守歌というものが、どうもあるようです。そしてだからこそ時には、歴史という悪夢をなだめるための、民族の何だかでもあったり、します。
わたしがもっている『世界の子守歌』(レーベルキング―2005・B0007YVVDY)には世界各国の子守歌が収められていますが、そのうちの幾つかは、大人であればとても寝られないような、凄惨な内容を秘めた歌もあります。たとえば『イスラエルの子守歌』では、泣き叫ぶような悲壮なバイオリンと、地底からひびくような男性二人の声で、「祈りの草の中で父さんは死にました。いつかは戦いの終るその日を待って 平和に暮らしましょう イスラエルの地で」 と歌われます。
つまりこれでは寝られないわけです。大人は子どもには聞こえていないことばを聞くから、寝ることができません。しかし、おそらくその子どもたちはこの曲でも、寝ることができたのです。
『世界の子守歌』には「パナイ島の子守唄」が収められています。ひじょうに短い曲で、同じ歌詞を二つくりかえして終わりです。(これは翻訳なのでもどかしいですが、訳者がことばの負荷を汲んで、日本語に移している、と信じることにしましょう。)
坊や、行こうよ 泣かずに寝んね
おかあさんは 街に お使いに行くの
坊やよ、行こうよ。泣かずに寝んね
おかあさんは 街に お使いに行くの
この曲はまず、いわゆる「子守歌」の条件を実質的に満たしていません。子どもがベッドにいて、寝ようとしているわけではなく、彼らはどこか、ちがう場所にいます。この子どもはベッドに行かなくてはなりません。なぜベッドに行かなければならないのか。なぜ子どもを寝かせるような、まるで夜のような時間に、おかあさんは街へお使いに行くのか。
これが子どもを寝かせなければいけない、子守歌をうたわなくてはならない子守歌の哀歌です。短い歌詞ですが、わたしたち大人はその節々からひびくサンタクロースの言語をよく見知っています。
この歌にある「街」というのは、「町」でもなければ「まち」でもない、あの「街」です。現在、少なくともわたしの付近に広がる街、その中に、深く隠れている「街」です。「お使い」もまったく「お使い」ではありません。
だから、この子どもを寝かせようとするおかあさんは街にお使いに行くわけではありません。
ですがおかあさんは街にお使いに行くのです。
子どもはベッドに行かなければならず、おかあさんは街に行かなければなりません。
わたしたちはいまサンタクロースの言語で話しています。
現在、子守歌ではなくとも、大人同士で、わたしたちはサンタクロースの言語で話すことがある気がします。
(土曜日担当)
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