昨日、朝日カルチャーセンター立川で開催された講座
「対談 詩人和合が歌人穂村弘に訊く」
へ行ってきました。
この講座、本当は6月16日に開催されるはずだったのですが、ご存知のとおりその日地震があり、福島在住の和合亮一さんは新幹線が動かなかったため東京へ来れず延期となり、昨日7月26日に無事開催されました。
和合さんはトルタの河野、山田が「現代詩手帖」投稿欄へ投稿をはじめたときの最初の選者で、それ以来なにかと関わりをもたせていただいておりますが(新幹線の窓越しにすれ違いのあいさつをかわすというような不思議なご縁もあります)、いつもかわらず、熱血で、まじめで、かつどこかひょうきんで、大きく、握手をする手は意外にやわらかくてやさしい、そういう方だな、と思います。
歌人の穂村弘氏は、これまで著書等をときどき拝見していて、ポップかつロジカル、明晰な語り口に感服することが多かったため、いちどご本人を見たいと思っていましたが、著書から想像していたよりずっと繊細というか、内向的(良い意味で)な印象を受けました。ああいう方から鋭く的を射た発言がでると迫力があってとてもかっこいいですね。
対談の中身としては、なにが詩歌に「リアリティ」を、ことばであらわされたものに実在感を与えるか、という話が個人的にはうなずくところがたいへん多かった。穂村氏は「しょうもないもの」こそがリアリティを与えるのだといいます。つまりそれは、大きなビルディングや、社会的なルール等、有用で、役にたつもの、つきつめれば「生存のために必要なもの」ではなくて「どうでもいいようなもの」なのですが、個々人が実際に存在した痕跡のたぐいはむしろそちらに宿っており、それを拾い上げることで詩歌はリアリティを持って生きる、ということです。
考えてみればたしかにそうで、「生存のために必要な」合目的的なことは、合目的的であるがために最終的には、画一的というか、ようするに「同じこと」になるわけです。しかししょうもないこと、たとえば私が靴を履くとき必ず左足から履くとか、洗濯物を干すときは必ず左側に洗濯ばさみをとめるというようなことはどちらであろうとどうでもいい話なのですが、しかしこういうことが私の生活のディティールをなしているわけで、私の生活の実在感はこういったことを拾い上げて伝えればよりよく相手に伝わるにちがいない。
またこのような「しょうもなさ」をたたえた記述は、詩の一行を書くときには最大の威力を発揮するのもたしかです。語る自分と自分が語りたいことからすこし離れた醒めた目であるともいえますが、そういったものがあることでむしろ逆に詩は劇的になったりより共感をよんだり、読み手のこころを動かすなにかになりうる。
ただ、だんだん対談のおわりに近づくにつれてよくわからなくなってくることもあり、それは穂村氏が「わかりやすさ」と呼ぶものです。いま考えてみると、これについて話がやや混乱している印象をうけたのは、ここで「わかる」といっている対象がなんなのかを和合さんも穂村氏も言わずに話していたからで(それはおそらくそれぞれにとっては自明か、すくなくとも自明だと思うものだったからなのだと予想します)、ですがここで「わかる」対象は、詩人和合と歌人穂村のあいだでは、まったく違うとまではいえないにせよ、かなりずれていたのではないかという気がする。それに「わかる」という語の内実はあまり明確ではありませんし、詩歌は合目的的な文章ではない以上、ここで「わかる」対象についてもそんなに明確であるわけではない。
もしかすると、詩人と歌人の拠ってたつところの違いはこういったところにあるのではないだろうか、とふと思います。
散漫な記載となってしまいましたが、総じてたいへんおもしろい会でした。また打ち上げにも参加させていただき、若い歌人の方々等を知ることができて、たいへん嬉しかった。
和合さんのこの対談シリーズは朝日カルチャーセンター立川で今後もずっとあるそうです。
次回は詩人長田弘氏とのお話になるそう。
その他詩に関係する公開講座もこれからいくつもあるそうですので、ご興味ある方はごらんになるといいと思います。リンクを貼っておきました。
朝日カルチャーセンター立川教室ところで、今朝知らせが届いたのですが、9月21日の日曜日に秩父のポエトリーカフェ武甲書店さんで開催されるトークイベント(メインは野村喜和夫さん)のパネルディスカッションに私河野が参加させていただけるようです。詳細がわかりしだいアップします。
それでは今日はこのへんで。
(KONO)
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テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術