TOLTA ■
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2008.11.17 Mon
10月の終わりのことですが、われらが<トルタン>のおひとり、川村龍俊さんから、1枚のCDをいただきました。
(*川村さんはご自身のホームページをお持ちですので、どうぞご覧ください→川村龍俊ホームページ)
CDは「続 目から耳へ ピアノの朗読+詩の演奏」と題され、今年の10月13日に阿佐ヶ谷の名曲喫茶「ヴィオロン」で開催された会の音が収録されていました。
CDからはピアニスト後藤國彦氏によるピアノ演奏(モーツアルト等のクラシック)と、川村さんによる詩の朗読が交互に聴こえてくるのですが、添えられていた資料によると、このお2人の演奏会にはいくつか、ルールがあるということで、おもしろいので下に書き出して見ます。
ルール
1.それぞれが6作品ずつ、交互に朗読とピアノ演奏を行なう。
2.演奏前には、どんな作品を音にするかは、観客にも相手の出演者にも秘密とする。
3.どちらの演者が先攻となるかは、はじまるときにじゃんけんできめる。
想像するだけでも、これはたいへん興味深い、よくできたルールだと思います。
演者はそれぞれ、自分が発表する作品とその順序をあらかじめ厳密に決めておくのですが、相手が何を用意しているのかはわからないため、交互に演奏されるピアノの音と詩の声が、相互にどんな繋がりをもち、あるいは断ち切り、どんな連想を観客や自分に生み出すのかは、その場ではじめて体験されることになります。
さらに、川村さんが資料に書かれていることによると、ピアノ演奏だけでなく川村さんの詩の朗読も「クラシック音楽の演奏者になったつもりで詩を読む」のであって、
「詩は楽器の指定も、テンポの指定も、抑揚や音量の指定も、何もない楽譜ですから、演奏者(=読み手)は、この楽譜を前に、どのように演奏すればいいのか、研究しないわけには」いかない、
「時代考証、版組や字体や紙質や本の大きさ、同じ作者による他の詩との関係等といった、音楽学的なアプローチ、テキストそのものを繰り返し読み込むことによってしか見つけられない、その作品の独自性の確定作業等」
といったプロセスを経過した表現、パフォーマンスであるわけです。
このように研究されたパフォーマンスが、同様の過程を経ている(クラシック音楽の演奏を学ぶとはまさしく、前記のような作業を行なうことです)ピアノの演奏と、<ルール>による偶然的な要素をまじえて遊ぶのがおもしろくないはずはありません。ただCDで事後的に聴いたのではそういった遊びのおもしろさはあまり伝わってこないのがやや残念なことでありますが。
ところで、川村さんは資料の中にこのように書かれておられます。「詩の朗読(特に自作詩朗読)には、この十年くらいの間に若者を中心にずいぶん市民権が与えられたように思います。ですが、そこで聞ける「声質」は、詩を通して朗読者・作者への注目を訴えるものがほとんどのように私には思えます」
これはおそらく私が「詩人の朗読」に対して持っていた感想ときわめてちかいものです。そして「詩を通して朗読者・作者への注目を訴える」ような声、朗読に、かりに問題があるとすると、それは「詩作品(それ自体)にあるものがほとんど聴こえてこない」ということでしょう。
そのかわりに、詩の作者(=読み手)が発している何かは伝わってくることがあります(これもいつもあるというわけではありませんが)。
おそらく朗読があまり好きになかった私がずっと感じていたのは、<詩人の朗読>(自作詩の)を聴くことが好きな人というのは、詩と同時に詩を読んでいる人(往々にしてそれはイコール作者)に関心を持っており、詩人自身の何らかの情報(朗読というパフォーマンスには大量の身体的情報がくっついてきます)を欲しているのではないか、ということでした。しかし私自身はそんなになまみの人間それ自身には興味を持たないものですから、どうもそういうのはあまり、得意ではない。また、持ち時間せいぜい10分というよくある<詩人の朗読イベント>のスタイルが、このような私の感想を助長していたともいえましょう。
しかしでは、朗読において<詩それ自体>が聴こえてくるような、そういう朗読をするにはどうすればいいのか。
川村さんのような「クラシック音楽的」アプローチはひとつのすばらしい回答であり、とくに、自作詩でなければ最強の方法となりうると私は思います。
ですが、自作の詩の場合、そしてその詩を書いた時間が近ければ近いほど、そのようなアプローチは難しいのではないか。自分の書いた作品を冷静にとらえることはたいへん難しい。冷静であるというのは、分析的にみることとはすこし違います。書いた直後の熱さめやらぬまま分析的であることは可能であり、しかしその分析はきっと、第三者からみるとあまりたいしたことがなかったり、あるいは気恥ずかしいものではないだろうか。
最近私は、結局のところ自分の<声>を鍛えることがいちばんの近道であるように思い始めました。
声を鍛えるとは、私の理解では、自分の声にひとりで陶酔したり、気持ちいいと感じることではなく、詩の言葉に接するために、自分のものでありながら、自分を超えた声を持つことです。
自分のものでありながら同時に自分自身を越えること。楽器や手を使う技芸をわがものにするとき、そういう境地がたしかにあるように、自分の詩を読むときにも、そういう声を手に入れることができれば、自作詩を読むという<詩人の朗読>はたしかにひとつの表現のジャンルをなしえるのではないか。それは伝統芸能のような形式性は持ち得ないかもしれませんが、すぐれたコンテンポラリーダンスにあるような、自由な力になるのではないか。
といったことを最近、考えています。
*「」で引用したのはすべて、「続 目から耳へ」添付の資料にある川村龍俊さんの文章によります。
(KONO)
追記 川村龍俊さんの朗読ライブ「続々 目から耳へ」は、次回、来年2009年の11月23日に、阿佐ヶ谷「ヴィオロン」で開催されるそうです。
(*川村さんはご自身のホームページをお持ちですので、どうぞご覧ください→川村龍俊ホームページ)
CDは「続 目から耳へ ピアノの朗読+詩の演奏」と題され、今年の10月13日に阿佐ヶ谷の名曲喫茶「ヴィオロン」で開催された会の音が収録されていました。
CDからはピアニスト後藤國彦氏によるピアノ演奏(モーツアルト等のクラシック)と、川村さんによる詩の朗読が交互に聴こえてくるのですが、添えられていた資料によると、このお2人の演奏会にはいくつか、ルールがあるということで、おもしろいので下に書き出して見ます。
ルール
1.それぞれが6作品ずつ、交互に朗読とピアノ演奏を行なう。
2.演奏前には、どんな作品を音にするかは、観客にも相手の出演者にも秘密とする。
3.どちらの演者が先攻となるかは、はじまるときにじゃんけんできめる。
想像するだけでも、これはたいへん興味深い、よくできたルールだと思います。
演者はそれぞれ、自分が発表する作品とその順序をあらかじめ厳密に決めておくのですが、相手が何を用意しているのかはわからないため、交互に演奏されるピアノの音と詩の声が、相互にどんな繋がりをもち、あるいは断ち切り、どんな連想を観客や自分に生み出すのかは、その場ではじめて体験されることになります。
さらに、川村さんが資料に書かれていることによると、ピアノ演奏だけでなく川村さんの詩の朗読も「クラシック音楽の演奏者になったつもりで詩を読む」のであって、
「詩は楽器の指定も、テンポの指定も、抑揚や音量の指定も、何もない楽譜ですから、演奏者(=読み手)は、この楽譜を前に、どのように演奏すればいいのか、研究しないわけには」いかない、
「時代考証、版組や字体や紙質や本の大きさ、同じ作者による他の詩との関係等といった、音楽学的なアプローチ、テキストそのものを繰り返し読み込むことによってしか見つけられない、その作品の独自性の確定作業等」
といったプロセスを経過した表現、パフォーマンスであるわけです。
このように研究されたパフォーマンスが、同様の過程を経ている(クラシック音楽の演奏を学ぶとはまさしく、前記のような作業を行なうことです)ピアノの演奏と、<ルール>による偶然的な要素をまじえて遊ぶのがおもしろくないはずはありません。ただCDで事後的に聴いたのではそういった遊びのおもしろさはあまり伝わってこないのがやや残念なことでありますが。
ところで、川村さんは資料の中にこのように書かれておられます。「詩の朗読(特に自作詩朗読)には、この十年くらいの間に若者を中心にずいぶん市民権が与えられたように思います。ですが、そこで聞ける「声質」は、詩を通して朗読者・作者への注目を訴えるものがほとんどのように私には思えます」
これはおそらく私が「詩人の朗読」に対して持っていた感想ときわめてちかいものです。そして「詩を通して朗読者・作者への注目を訴える」ような声、朗読に、かりに問題があるとすると、それは「詩作品(それ自体)にあるものがほとんど聴こえてこない」ということでしょう。
そのかわりに、詩の作者(=読み手)が発している何かは伝わってくることがあります(これもいつもあるというわけではありませんが)。
おそらく朗読があまり好きになかった私がずっと感じていたのは、<詩人の朗読>(自作詩の)を聴くことが好きな人というのは、詩と同時に詩を読んでいる人(往々にしてそれはイコール作者)に関心を持っており、詩人自身の何らかの情報(朗読というパフォーマンスには大量の身体的情報がくっついてきます)を欲しているのではないか、ということでした。しかし私自身はそんなになまみの人間それ自身には興味を持たないものですから、どうもそういうのはあまり、得意ではない。また、持ち時間せいぜい10分というよくある<詩人の朗読イベント>のスタイルが、このような私の感想を助長していたともいえましょう。
しかしでは、朗読において<詩それ自体>が聴こえてくるような、そういう朗読をするにはどうすればいいのか。
川村さんのような「クラシック音楽的」アプローチはひとつのすばらしい回答であり、とくに、自作詩でなければ最強の方法となりうると私は思います。
ですが、自作の詩の場合、そしてその詩を書いた時間が近ければ近いほど、そのようなアプローチは難しいのではないか。自分の書いた作品を冷静にとらえることはたいへん難しい。冷静であるというのは、分析的にみることとはすこし違います。書いた直後の熱さめやらぬまま分析的であることは可能であり、しかしその分析はきっと、第三者からみるとあまりたいしたことがなかったり、あるいは気恥ずかしいものではないだろうか。
最近私は、結局のところ自分の<声>を鍛えることがいちばんの近道であるように思い始めました。
声を鍛えるとは、私の理解では、自分の声にひとりで陶酔したり、気持ちいいと感じることではなく、詩の言葉に接するために、自分のものでありながら、自分を超えた声を持つことです。
自分のものでありながら同時に自分自身を越えること。楽器や手を使う技芸をわがものにするとき、そういう境地がたしかにあるように、自分の詩を読むときにも、そういう声を手に入れることができれば、自作詩を読むという<詩人の朗読>はたしかにひとつの表現のジャンルをなしえるのではないか。それは伝統芸能のような形式性は持ち得ないかもしれませんが、すぐれたコンテンポラリーダンスにあるような、自由な力になるのではないか。
といったことを最近、考えています。
*「」で引用したのはすべて、「続 目から耳へ」添付の資料にある川村龍俊さんの文章によります。
(KONO)
追記 川村龍俊さんの朗読ライブ「続々 目から耳へ」は、次回、来年2009年の11月23日に、阿佐ヶ谷「ヴィオロン」で開催されるそうです。
KONO
楽しみ方がひとそれぞれ、と言ってしまうと、あたりまえすぎておもしろくないのですが。
詩の文字を音にしたとき、文字とはちがうタイプの情報に変わるわけですが、それをどういう風に面白くできるか?ということで、私個人としては、声自体を鍛えるというのはひとつの選択肢だと思っているわけです。
どうでもいいんですが、パソコンのキーボードは得意なのに、ゲームのコントローラーと携帯電話のキーは苦手な私です(しかもちっとも上達しない。携帯メールを片手でサクサク打てる人が不思議でなりません。どうやったらあんなに親指が長くのびるのか?)
詩の文字を音にしたとき、文字とはちがうタイプの情報に変わるわけですが、それをどういう風に面白くできるか?ということで、私個人としては、声自体を鍛えるというのはひとつの選択肢だと思っているわけです。
どうでもいいんですが、パソコンのキーボードは得意なのに、ゲームのコントローラーと携帯電話のキーは苦手な私です(しかもちっとも上達しない。携帯メールを片手でサクサク打てる人が不思議でなりません。どうやったらあんなに親指が長くのびるのか?)
2008.11.24 Mon 11:29 URL [ Edit ]
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詩の朗読に私が強く関心を持つとしたら、
とにかく耳では全部、切れ切れの「音」でしかない、
けれども、実は漢字熟語で、
二通り以上の書き方があってみたり。
逆に字面では、どう読むか分からないような熟語や、
抑揚が予想できないような単語があって、
朗読では、どう読むのか?を楽しみに、
耳をすませています。
私自身は、上手く書けないし、うまく読めないので、
「鍛える」というのは、嫌だなあ、と思いますが。
TVゲームの腕を鍛えるのには抵抗のない私です。